そこが自分で考えた 的外れかもしんないけど
実はね そういう解釈ができるのが本であり
そうやって自分の性格が浮き彫りになるんだね
そこのズレがキャラクターじゃん 個性じゃん
違うって言われて 捨てることはないんですよ
太田いいこと言いますね。この話はもっといろんなところでされるべきだと思う。この話は1つ掘ってるんですよね。人々の解釈が異なるところまでは、多くの人が分かってる事だとは思うんです。でも、その解釈の違いそのものが個性だっていう事を分かってる人は少ないんじゃないかなと思ったりするんです。
俺がたまにブログのコメントや感想とかでムカつくのは、まさにこれなんですよね。それってお前がそう思いたいだけ、読みたいだけで、それは個性をぶつけてるだけじゃんっていう。共感しましたとか、記事の内容についてのつっこんだ質問とかは別になんとも思わないんですが、たまに通りすがりとかが妙に怒ってくるじゃないですか(笑)10人中5人が怒るような話ならまだしも、なんかお前しか怒ってないんですが?みたいな。こういう事はたまにありますが、そーいう奴らに、解釈の違いそのものが個性なんだよっていう事を自覚して欲しいんですよね。
この解釈でいけば、そういうコメントそのものは、個性の主張や自己PRみたいに見えてくるんですよね。みっともないというか、やるなら、自分のところでPRしろって事ですね。もっと大きく考えると分かりやすいかも。自己PRするために、ゲリラ的に生放送のテレビに出演してチンコ出してみたり、新聞の一面を強引に奪い、そこで戯れ言を主張するとか。なんだか他人のふんどしを借りたようなせこさまで感じるわけです。人間が小さいな…みたいな。主張も意味不明に怒ってたりして、ほんとに気持ちわりーなーって思うんです(笑)あとは、個性を受け入れてくれる人って、認められない限りダメだと思いますね。解釈も異なっていいが、異なるのが前提としてあるなら、そんな自身ありげに主張して、おまけに感情にまで直結するというのは、自信過剰というか、自己過信なんじゃないかなと思います。それでも個性をくれるとか、あげるっていうなら、お前はいいからお前をもらってやるって感じなんですよね。もらった後に、ただちにゴミ箱に捨てますけど。街灯で半ば強引に手渡されたなんかの宣伝の紙切れみたいな感じ。
で、この話って、太宰や宮沢が他界しているからこそ、解釈が異なるわけで、太田もそこをきちんと言ってるけど、本人がいる場合っつうのは、やっぱり本人が言う事が正しいと思うんです。もし間違った解釈をしていたら、その解釈は違って、こういう解釈をして欲しいと言うと思うんですね。
お前は俺か?って何度か言った事があるんだが、これもそうです。本人が説明しているにもかかわらず、なおも自己解釈を、本人の前で述べるっつうのは、ちょっとおかしいんですよね。ある程度の仲であれば、個性を受け入れる事もするので、言ってもいいかもしれないが、正しくないものを聞かされる身というのは、退屈だとは思うんですよね。
こういう事は直接言うんだけども、なかなか分かってもらえた感じがしない事になりやすいです。手応えがないっていうか、二度も三度も同じ事を言うはめになるから。だから分からないのかなあ?とか、本当に馬鹿なんじゃないかな?とか、精神病なんじゃないか?とか心配になる事もありますが、なんだか理解まではいかないという言葉の限界なのかなーってしばらく思うようにしていたんですが、日本語練習帳 (岩波新書)にちょっとした答えがありそうだなって思い、引っ張り出して読んでみたんですが、この本は面白いです。練習すればするほど、文章を使うのはやめようかなって思えるので(笑)
この話って、別に本じゃなくて文章にはありがちだと思うんですが、そういう意味では、文章は意思を伝達するには使いにくい道具だとも思います。そして、文章は書いてる時は自分のもので、公開したらもう自分のものじゃなくて、みんなのものになるって事ですかね。寺山修司の一匹を思い出しました。
http://www.youtube.com/watch?v=7ZP55mf-Bog
少年は太郎がみんなのものになったことを知った
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